第39話「本当はやりたくない」

長編小説

「オッケー、プリーズ、リピート、アフター、ミー」

 それを聞き、少し意識を戻すように教壇へと目を向けた。今は音読の練習だ。本条先生が読み上げた英文をくり返している。秋穂はほとんど口パクのように音読していた。

 その途中、教室の後方から俊平の声が聞こえてくる。よく通る声をしているので、耳を澄まして聞き分ける必要もなかった。先生が「モア、ラウドゥリィ!」と言うと、さらに大きくなった声が耳に入ってきた。

「オッケー、ソウ、グッド!」と先生は微笑んだ。「はい、いいね」

 チャイムの音が鳴りはじめると、先生は「あっ、ちょうどよかった」と授業を終わらせた。

 号令が終わった後、すぐに席から離れる人もいる中で、秋穂はもう一度椅子に腰かけた。

 そのとき、本条先生が「じゃあ、先生はここにいますので、早めに帰る準備をしてください」と声を上げた。日直が職員室に呼びに行く手間を省くためでもあった。

 今日は木曜日で、部活動はない。椅子の下にあるカバンを机に置き、教科書を丁寧に並べるように入れた。

 しばらくすると、終礼がいつもよりも早めにはじまった。そこで各色のリレーの選手が発表され、青組では涼の名前も呼ばれていた。

 先生が「三組からは、えーっと、五人も選ばれましたね」と言い、「これは他のクラスと比べても一、二番目に多いらしいです」と続けると、教室内では少し注意されるほどに歓声が上がった。秋穂も小さく拍手した。

「リレーの選手に選ばれた人は精一杯頑張ってくださいね。じゃあ、これで終礼は終わります」

 いつも通り机や椅子を下げた後、秋穂は声をかけられるのを静かに待っていた。

 たいした用もなくカバンの中を探っていると、俊平が「秋穂、帰ろうぜ」と期待通りに喋りかけてくる。

 校舎を出て少し進んだところで、彼は「先に行ってて」と言った。秋穂は「うん、分かった」と答え、一人で正門のほうへと向かった。

 木曜日が嫌いだった頃も一人きりだったけど、今では嫌な曜日という感覚もなくなってきていた。

 広い海を前に坂道を下っていると、俊平が前に大きめのカゴがついているシルバーの自転車に乗ってやってきた。カゴが大きいのは、彼の母親が前に買い物とかで使っていたかららしい。彼は「ちょっと恥ずかしいんだよね」と笑いながら教えてくれた。

 多くの人が帰宅している中で、二人も最寄り駅のほうへと歩いた。大所帯で帰っているようにも見えたが、塩里海岸前駅を通り過ぎると一気に減っていた。もちろん、大半が電車を利用して帰るからだ。

 二人は赤信号で立ち止まり、青信号になるまで待った。十メートルもない横断歩道だ。海岸がすぐ近くにあるからか、砂があちこち散らばっている。

 ふと見てみると、砂浜では若い母親と幼い子どもが手を繋いで歩いていた。

「もう三か月切ってるからね」と俊平は言った。

「うん」と秋穂は歩き出しながら頷いた。「たぶん二か月もないよ、もう」

「えっ、二か月だっけ? ああ、もう二か月切ってるか」

「うん」

 二人はサッカー部の最後の大会について喋っていた。七月の中旬からはじまるトーナメント方式の大会だ。来月には涼と監督が抽選会に行く予定なので、一回戦の対戦相手も分かることになっている。

 「くじ運も大事になってくるね」と言うと、俊平は「もちろんくじ運も大事だけど、どこが相手でも勝つぐらいの気持ちがないとダメだよ」と答えた。

「ああ、うん。そうだね」

「でも、今年は行ける気がするんだけどなあ」

「行ける?」

「うん」と彼は地面のほうを見ながら頷いた。「今年は三回戦ぐらいまでは普通に行ける気がするだけど、まあ、去年もそれで負けたから油断はできないね」

「うん、そうだよね」

「えっ、秋穂は知ってるの? 去年一回戦で負けたこと」

 「うん、私見に行ってたから」と答えると、彼は「えっ、見に来てたの?」と少し驚いていた。そこまで強くない相手に負けたのも、麻里から以前に聞いていた。

「うん」と秋穂は頷いた。「あの試合を見て入ろうと思ったんだよ」

「ああ、サッカー部に?」

「うん」

「そうだったんだ」

「うん」

「あの試合はねえ、もう悔しすぎるよね。最後のほうはもう焦りすぎちゃって自滅したところもあるし」

 試合後の様子も印象的だったと話すと、彼は「ああ、みんな泣いてたからね、あのとき」と言い、「あの涼だって泣いてたからね、部室の奥のほうで」と続けた。

「えっ…」

「うん、涼も泣いてたよ。しかもちょっと泣くとかじゃなくて、結構泣いてたからね。さすがにもう見てられなくて、俺はすぐ部室から出ちゃったけど」

 それを聞き、秋穂は思い返していた。試合終了のホイッスルが鳴ったとき、校庭で立ち尽くしていた彼の姿だ。

 あれだけでも胸が苦しくなるところがあったけど、まさか泣いていたとは知らなかった。

 少し黙っていると、俊平は「いやあ、でも涼はほんと凄いよね」と続けるように言った。

 その際に西北高校の生徒たちを乗せた電車が横を通り抜けていき、どんどんと離れていくように遠ざかっていった。

「マジで凄いと思うよ」と彼は続けた。「ほとんど毎日のように朝練来てるし、俺が寝坊して行けなかった日も、一人でボール蹴って練習してたりするからね。フィジカルの走るやつとかでも大体トップじゃん? しかもそれで『疲れたあ…』とか絶対に言わないからね、あいつ」

「うん」

「いや、俺もね、俺もサッカー好きだけど、涼にだけは負ける気がするよ。あと、俺……今まで誰にも言ったことないんだけど、本当はキーパーやりたくないんだよ」

「えっ…」と秋穂は顔を上げた。

「うん、ほんとはね」と彼はくり返した。「俺、実は小学生のときはフォワードだったんだよね。周りよりも背が高かったし、がたいもまあまあよかったから、最初はほとんど何もしなくてもスタメンでいられたんだけど、たしか中学生になったあたりだったかな……それだけじゃ通用しなくなってきて、スタメンとかレギュラーどころか、もうメンバーにすらも入れなくなってきて、周りからも『ただデカいだけだな!』とか言われたりしてね」

「ひどい…」と秋穂は呟くように言った。

「いや、まあ、正直ショックだったけど、その通りだとも思ったよ。でもあのときはすごい悔しかったからめっちゃ練習したつもりだったんだけど、結局全然練習してないようなやつにも負けてたからね。ほんと才能がなかったんだろうね、俺は。だから中学校のときにサッカー部やめて、もう他の運動部に移ろうかなって結構本気で考えたよ」

「他の運動部に?」

「うん、一回だけね」と彼は強調するように答えた。「いや、でもやっぱりサッカーがやりたいと思ったから、フォワードは諦めてキーパーやろうって決めて、ほんとに監督とかから言われたんじゃなくて、自分で『やりたいです!』ってはっきり言ったんだよね。キーパーってサッカーの中では、ちょっと特殊なポジションじゃん」

「うん」

「だから自分にも、まだ望みがあるかもって少し思えて…。まあ、周りから見れば当たり前の選択だろって思われるかもしれないけど、俺にとっては結構大きな決断だったんだよね」

 「…そうだったんだ。初めて知った」と言うと、彼は「まあ、初めて人に言ったからね」と小さく笑った。

 そのとき、電車はすでに見えなくなっていた。(第40話に続く)

第40話「嫌な思い出」

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